昭和46年06月28日 朝の御理解
御神訓 一、「疑いを去りて信心してみよ みかげはわが心にあり。
神を信ずるというても、初めから信ぜれる者はそうざらにあるものじゃありません。又の御神訓にもあります様に、「神は声もなし形も見えず疑わば限りなし恐るべし疑いを去れよ」と教えておられますが、けれども疑っておったんでは、矢張り疑うてかかれば神様は全部嘘になるでしょう。半信半疑ではもうおかげは半分、絶対と信ずる所には絶対のおかげがある。そこでこれは疑へない性分の人がありますね。
疑いを知らない。純心な人。だからそういう純心な人が、矢張りおかげを受けることがよく分ります。人間が少し複雑に出来てる人は、もう根掘り葉掘り自分が合点がいかねば、神様を神様と言おうともしない拝もうともしない。神様とはこういう神様でこういうおかげを頂いた、こう言う事だとお話しをするとあぁそんなものですかとすぐこう、それを信じれる人がある。
疑いを去って信心してみよ。だからどうでも一つまあ騙されたと思うてという意味のことを申しますけど、まあ騙されたと思って一つ言われる通りの事をさして貰いよったら成程これがおかげかこれが神様かとわからせて貰う訳でございますけど、疑いを去った心、私はこういう心が広い心だと思いますね。疑う、疑ってくると疑う範囲が広くなって来る。私は今朝御神前で「深ぁく」「広ぉく」と頂いた。深く広くそれも只深く広くじゃなくて、「深ぁく」そして「広ぉく」と頂いた。
それで教典を開かせて貰ったら今の処を頂いた。そして気付かせて頂いたんですけれども、疑いを去ると言うことは、これはそのままが広ぉい心だなと思わして頂いた。広い心だからやはりおかげも範囲が広くなって参りますね。広い範囲になって来る。昨日千葉県の東飯塚から出でおられる先生で千葉に布教しておられるその方が昨日三年ぶりといって、三年前に見えたことがありました。見えられましていろいろお話しを聞かせて頂きました。所謂、大久保先生が師匠になられる訳です。
なかなか私は教団切ってのいうなら大人物と申しましょうかね、いわば広ぉい心の方だと思うです。古賀先生もあそこの弟子ですけれども、未だこの神愛会の時代、椛目の時代に当時の椛目に二年間修行が出来たのも師匠である大久保先生が広い心だったからと思いますね。他の教会から色々修行に来る人がありますけれども、それが永く続かんのは親教会の先生が小さい事ばっかり言うておられる。細い事ばかり言うておられるから、こそこそ隠れた様にしてしか来られんから、落ち着いておられない訳です。
その為にはその当時悪名高かった、椛目のことですから、やはり自分自身が出て見えられました。未だ教会でもない椛目に師匠である、大久保先生が出て見えられました。そしてまあこれなら良いと思われたのでしょうか、教会とか教会でないとかより、人が助かっておるその事実を見て、まあしっかり修行せろというて、あれから又一年間とにかくせめて大坪先生これをお預けしますというて、私もそれならお預かりしますというて、預かった様なことでした。
心が大きいだから本当に、ところが当時或る教会から来とった方も、もうそれこそ問題が問題を生んで、とうとう当時の椛目にお参りできないようになってしまいましたがね。一人の方、そして椛目はどうも他所の信者を横取りすると云うところまでなってしまったのですけれどね、結局今に先生の信心が続いておるなら昨日見えた千葉の先生もやはり古賀先生のお導きで合楽におかげ頂いた方なんです。
その先生が昨日言われますのに、親先生一寸信心の上でわからん事が出来ましたとそれで私は今から合楽に行きますと言うたら、あぁそうかといわれただけだったそうです。それがね師匠に言えれると言う事。それを黙って聞いてやれれると言う事は、まそうかと聞いてやれれると言う事。これは矢張り心が広からにゃ出来る事ではありませんね。それを一番に昨日聞かせて頂きましてから、大久保先生は大きいなぁと思いました。
又お話を頂きよったらその大久保先生が学院の補導をなさっとりますから、学院生に教えられる先生ですからね。その後に聞いたんですけれども学院生と一緒に本部の方に向かって、学院の方から本部の方に向かっている途中に交通事故に遭われましてね、随分長い間金光病院から飯塚の方へ帰られんで入院されたそうです。まあ現在おかげ頂いてあるそうですが、その事に非常に心に病まれたんですね。
こういう尊い御用をさせて頂いておるのにどこがどう間違ったらこうなったであろうかと言う事をですね、もうしきりにまあ考えられたと言う事でございます。そしたらそれも昨日聞かせて頂いたのですけども或る時ですね、神様から大きなお声でですね、御理解第三節を頂かれたそうです。私はその時にはどうしてどう言う事かなというて、御自分もわからんと仰るそうです。どういう意味か。
自分がそういう尊い御用をさせて頂いておるのに、どうしてそういう何十人という生徒を学院生を百人からの連れて、しかも後先に先生方が〈証人〉でおられる、その大久保先生にぶつかってですね、どうしてこう言う事になって、どうしてこう言う事が起こったのであろうと言う事である意味、で悩まれて休まれながらいろいろと考えられたのでしょう。どこに御粗末御無礼があったじゃろうかとい、う心もございましょう。そしたら御理解第三節を頂きました。
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず」これだけ、御理解第三節は大変意義の深い内容を持ったものでございますけれど、私は天地金乃神と申すことはと言う事、私はそれをどう言う事でしょうかというて先生も言うとられました。大久保先生もまたどうした事じゃろうかというておられる。私も聞いたけどわからなかった。けど今日の御理解頂いてあぁ成程大久保先生程の人もここに気付かれなかったんだろうかとこう思うのです。
例えばね、信心しとるから怪我をするとか災難に遭ったとかそんなことはね実は問題じゃない。天地の親神様の大きな思いからして見ればね、それでとやこう言う事じゃない。只わからんならお礼申し上げときゃ良か。私はね信心はねここに至るとき大変な広さというものを感じます。信心しとっても災難にも遭う。それは様々なことありますけどね、天地金乃神と申すことはである。
とてもねそれを詮索してどうこうという様な言わば信心の共励の対象になるのですけれどね、神様は大久保先生に神様の思い願いというものは、人間氏子でわかることじゃない問題は大きな意味のおかげに繋がっていけばよかろうが、そんなことは思い煩うなと仰せられたのじゃなかろうかと今日改めてそう感じます。大久保先生は只今申しますように教団切っての大人物であると思います。その大人物であるお徳を受けてある先生がそういう災難に遭わるる時に、それをどうした事であろうかと詮索された。
神様の御都合じゃ。もうそれで良い訳なんです。もう御礼申し上げておけば良いんじゃ。私はそういうとこをどうしてじゃろかどうしてじゃろうかと言う所に疑いが起こると思うですよね。疑いを去って信心して見よとはそういう大変な大きな事にまでなってくる信心がわかれば段々そういう事にまでなってくる、と思うですよね。先日から南八幡の若先生達夫婦が見えられました。で話を聞かせて頂きよったら、あちらの信徒会長、筑水の信徒会長の平田さんがあちらに出られてまあ盛り上がったという教会です。
その平田さんのお話しをしておられましたが、この頃からあそこに火事があった。それはまあ大変な損害のことであった。それこそお見舞いのお酒が何千本とあった。お付合いが広いです。その中にね、合楽からお見舞いが来たのと南八幡から来てたお酒だけにはお祝いと書いてあった。いまどき火事見舞いにお祝いというて書けれる先生がおらんという話されたというて話しをしておられた。
御礼申し上げるより他はないのだと、私はその大きな信心というかね今日は広ぉいと言う事を頂いたんですけど、広い事とはそう言う事だと思うのです。それこそ泣きの涙の中に、おかげ頂きなさったですね。といえれることなんです。秋永先生達一家があぁして事故に遭いましたですね。もうそれこそ三人三人とももう死を免れたとというのが不思議なくらいな大きな事故でございました。その時に久富国雄さんが先生今日はあちらにお見舞いに行こうと思います。
それでどういう風に言うたら良いでしょうかというわけです。そしたら神様からね、天地書附の中におかげという言葉がはいっとる。その天地書附今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にありというこのおかげは和賀心にありという、おかげというのは平仮名で書いてある。容易う書いてある。それは国雄さんあちらへいらっしゃったら、秋永先生おかげ頂きなさったですねとおかげといえばそれで良いという様なこと頂いた。
大変なことでしたねと、困ったことでしたとか所謂悔やんで加勢すると言った様なものじゃつまらん。おかげを受けられた。まだあの時は死ぬるやら生きるやらわからん様な時でしたからね三人とも。それにおかげを受けられました。それはそのおかげが全快しておかげを受けて帰ったとそう言う事ではない。深い広い意味に於いてのおかげなのです。私はどうでも一つね本当に大きなおかげ頂きたい、為にはね先ず一つ今日頂いた深い信心、広い心、心の広いというのは良いですね。
頭にかっかっ来ておる。これは心が狭いからです。ちった馬鹿じゃなかろうかちいう位に心が広くなると言う事はね、もう絶対広い大きいおかげにつながる事です。信心によって心が広くなると言う事は、今日はこの疑いを去りてと言う事。そこにはねもう何も言うことはない。どうしてと言う事もない。そういう広い心になるときに私は疑いと云うものは、離れていくもんだと思いますね。もうない訳です。疑いも何もない。広い心の中に。例えばよしこれが対人関係人の場合でもそうでしよう。
相手とまあ、人を見たら泥棒と思えと云ってありますけど、金光様の御信心はどこまでも、神の氏子として見るべきです。あーみすみす騙されよると思うてもです、そのことがです最近私がいう一切合切がおかげ、騙されても一切合切がおかげという中にはですね騙された事がかえっておかげの基になるのですよ。これはもう絶対です。ですから広い心にならねば出来ません。
昨日その千葉の先生が云うとられましたが、あちらには教会がバラッとしかないそうですね。ですからこちらにも修行生の方達が毎年、年々沢山御本部にお出られて先生方が次々と沢山出来られよりますから、是非千葉の方へ出して下さいとあちらは僅かなところですけれどもなかなか難しいところです。大阪からも出て来とれば甘木関係も出て来とる。それでもうよそからは入れまい。
そげんしとって他所から入れまいといった様ものがあってですね、又私共も九州から出てもらうと、心深いから是非ひとつ千葉の方へ出社を造って下さいという意味のことをいっとられましたがお話しを聞き乍らです、これはどこの地区にもあることですけれども一つの大きな教会がボス的な存在になっとる。そしてその近所にはもう俺んところ以外には出させんと言う様な事がもう心の狭いことですよね。もうこの教団の上に今一番欠けているのは広い心です。同時に深い心も欠けている様ですね。
浅くなりました。だからもう常識的になりました金光教の信心が。合楽ではそこんところを超常識ということで表現しますから、それを頂くのは深い訳なんです。わからんぐらいに深いです。だから場合によると常識がないとか人非人といわれる様な悪口を聞くわけですけれども、成程人非人です。人に非ずもう神様の心で事を運んでいきよりますから、だから深いから普通の人間じやわからん。してる事が何故あんなことをしよるかいいよるかわからん位に深い。
私は今教団に本当に欠けてるのは、この広さと深さだと思うですね。高度というか高いという意味に於いては例えば高橋正夫先生あたりのあぁいう偉い先生が出られましてね、教学なんかが盛んになりましたから或る意味で高度と思いますけれども、深さがない広さがない。それこそ同じ金光様の信心をさせて頂いておる者同志がいがみ合ったり、もうあれは甘木関係は俺の方に悪い。
大阪関係では甘木関係は受け入れられんと言った様な事でもうそこにあれはいかんこれはいかんと言った様な事はそれは千葉だけではありません。どこにもあります。どうでもひとつ教団の中にいよいよお道の信心が、世界に広がって行くためにはそういうひとつ枠をとるというよりもまず。自分銘々の心が広うならにゃいけんと、天地金乃神と申すことはである。そういう意味でですいよいよ合楽の使命は大きいという風に思います。なら合楽で私は欠けておるのは広さなんですね。
深さは何となしに感ぜられますけど広さがない。もっともっと広さがなからなければいけん。すぐかっかとくる。まあそんな感じがします。その広さと言う事は、今日の御理解からいうと疑いを離れて信心してみよ、みかげはわが心にありと仰せられておられるのですから、所謂大きなおかげにつながる大きな霊験につながると言う事ですから、本気で心を広くせねばいけません。心を広くすると言う事が疑いを払うと言う事になるわけです。どうでしょう。
深いと云えばあの井戸は浅い、あの井戸は深いといった事を申します。成程出てくる水は水に間違いないのですけどね、けど浅い井戸の水はどう言う事でしょうか。夏は生温い、冬は冷たい。反対に深い井戸はです、それこそ夏でも氷の様にありましょうが、冬はまるっきりお湯のごとあります。そこに浅さと深さが違うのです。信心も深くなって参りますとね、そういう夏でも氷の様な水を頂くことが出来るのです。冬でもお湯のような温かいお水を使うことが出来る程しのおかげになってくるのです。
合楽ではもう本当に御理解の例えば教祖がこうして教えて下さってるその御理解を本当に深めた上にも深めさせて頂いて二十年間たちますが、本当に一ぺんどん読んだっちゃ深いからわからんだろうと思うくらいです。読めば読むほどその深さを感じます。教祖のこの単純なように見える易しい表現で言うとられるこの言葉の中にこういう深さがあるのかと思われる位その深さに触れるときにです、普通では感じることの出来ない有難い深いものを感じることが出来る。
昨日は日曜日で丸少の方達と青年会、の方が一緒になって今度本部からこういう様なパンフレットのようなこれをこれは一部四円宛ですけどもね、これを皆にお導き用に使えと云うて来ましたのでうちでは千部もらいました。そしてここん所にうちのPRとでも申しましょうか、こう書くところがありますから、ここん所に丁度時期が大祓の時期に間に合いますから大祓の事だけここに書かして頂いた。これはもう皆さんに差し上げられないくらい皆さんに配ってしまったそうですが。
昨日は久留米の西鉄の所の前であちらの許可を得てそれから丸少の方達が二十名位参りましてね配りましたそうですからね随分二千枚ですからね。かかるだろうと思うておりましたら一時間ぐらいで配ってしまったという話です。それで後はデパートから西鉄辺りのゴミが散らかっとるのを拾って参るというような御用もさして頂いた。しかも丸少の幼年組も三年生から四、五年生が多かったんですよ。だから愛らしいですよね、ボーイスカウトの服を着てからそれを配るのですからそれはもう。
彼方此方から僕にくれと私にもという風で言わば売れ行きが良かったそうです。その中にはね、これは青年部の方達の思いたちで、折角配るなら合楽の本当のPRをしょうじゃないかというて、私は知らなかった。そしたらこういうものが出来た。中に挟んである。これを見せて頂いて有難いなぁと思うたんです。というのはこう言う事が書いてあるのです。とにかく助かりたい人へ、と冒頭にねとにかく助かりたい人へとお金に不自由をしている人。
一、病気で苦しんでいる人
一、人間関係で悩んでいる人
一、難儀は自分一人にあると思っている人
一、心の依りどころを求めている人
何でも何曜日でも、いつでも金光教合楽教会へお出で下さい。金光教は生き乍ら極楽の道を教えます。と書いてある。私はこれを読ませて頂いてね本当にこれはPRちゅうかね、大きい事じゃないて但しこれは私だけしか説けないなと思いました。それでもね、これはもう私だけしか説けないですと私は思うたです。何故っていうてあなた一番初めにお金に不自由している人と、お金に不自由している人が説いたって聞きはしませんよ。病気で苦しんでいる人。私どもは成程様々の病気をしました。
皆さん御承知の通り何年間足が立たんことがありました。現在は糖尿病であります。けれどもその病気を病気と一つも思ってない。神様が糖尿病という名の神様の御都合だと頂いてから有難いです。だからお砂糖も頂きゃお酒も頂くという事になってくるのです。足が立たなかった時などは全然医者にも行きませんでしたから、あれが普通なら大変なことでしょうね。けれども、神様の御都合だと思うとりますから益々座り込んで御用さして頂くことが有難かった。
ですから、私でなからにゃ説けない。最近なんか幹三郎の病気こと何かを聞いてもらったら、誰でも合点が行くだろうとこう思うです。病気で苦しみ、人間関係で悩んでおる人、これはここ二十何年なります間には教会としての悩みは大変なもんでしたよね。皆さま御承知の通りでした。場合には、血の涙の出るような時もありましたけれども、それを全部有難いものにして来たと云うものです。合楽は、だからどんなに人間関係で苦しんでいる人でも、私の体験を話せばおかげ頂くです。
難儀は自分一人に在ると思っている人、まあこういう事は私は思ったことがありませんのでわかりませんけど。次は心の依りどころを求めている人、私はこの事がです、これは私にして説ける事だと。昨日早速ね、これを頂いた人でしょうねお参りをして来てから、これにお金に不自由する人と書いてありますから、実はもうそれこそ初めての人なんですね。手形が落ちませんからお願いしますとお願いに見えた。早速おかげ頂きよります。だからですね、これは私にしてはじめて説けると。
私はねとにかく一切合切がおかげだと、私の心の中に開かれている極楽、金光教は生き乍ら極楽の道を教えますと書いてあります。最後にこれも私でなけりゃ説かれんのじゃなかろうかと、私はそう思うたです。自分自身が極楽の境地を開いとらんで、どうして極楽の道を歩かれますか。かというて生身を持っとりますから、苦しい時もあります、悲しい時もあります。昨日なんか私もう昼からもうきつうして、きつうしてたまらんじゃったです。休ませて頂いとったら千葉の先生が見えた。
是非私に会いたいというて来たそうですから、十一時に起こされてそのまま御用させて頂きました。ですからもう一時からあそこ二時迄位の間のとにかく御無礼してから代わってもらうほどきつかった。それでもじーっ心から神様を向わしておりましたらね。心の底からきついとは又別な有難うして堪えんと云うものが湧いてきた。そこにはもうきつさもなからなければ眠さもない。もうこのままなら何時間座っとっても有難いという心が生まれてきた。私はそれを参ってくる人に皆にそれを伝えた。
撫でさすりされることもやはり有難い極楽だけれども、本当にこれが地獄の釜の底じゃろうかと地団駄踏むようにしてでも、神様にお縋りをする。心を神様に向けさせて頂くところからその地獄の釜の底の底にです、極楽がある。これが本当の意味に於いてのまあ本当の意味というかね、どっちも極楽でしょうけれどもこういう極楽が素晴らしいというて話したことです。
心を神様へ向けてさえおればですね、泣く泣くでも辛抱しておけば、その後に極楽に行けれる道をね私は自分が頂いておりますから、人に伝える事が出来ると言う事です。こう言う事はどういう意味になりましょうか。今朝の御理解からいうと深いと言う事になりはしませんでしょうか。撫で擦りされる様なおかげが浅い水であるならば、底をもういっぺん突き抜けてその向こうにある有難きというものは、深いそれこそ夏でも氷の様な水を頂くような有難さでなかろうかと思うのです。
そういう意味に於いてお互いの信心をいよいよ深いものとしていくと同時に今日申しました広い意味に於いての信心を身につけていかなければなりません。その広い意味合いにおいてするならばねもう一切がそれこそ天地金乃神と申すことはである。天地金乃神の御心の中というものはその様に広いもの。その神様の広い心を私どもの心に、神の心を心として広いことになって来るときに疑いが無くなってくる。そこに疑いを去って信心してみよ。みかげはわが心にあると云う、おかげに接していける訳であります。
どうぞ。